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アラブ人のタクシー運転手に死亡記事の切抜きを見せると、少し神妙な顔になってから「OK」と頷く。道に迷いながら目的地近くの検問所に到着すると、若いイスラエル兵から「ここから向こうは非常に危険ですよ。それでも行くんですね?」と確認された。「仕事ですから」と私は答えて検問所を抜けた。
仕事…。テレビレポーター、マーゼン・アルトメイジはイラクで仕事(戦闘現場のレポート)中、アメリカ軍ヘリのロケットを受けて死亡した。パレスチナの町、イドゥナで生まれ育った彼は、地元の高校を卒業後、イラクの首都バグダッドへ留学し、ジャーナリズムを学んだ。大学卒業後、中東のテレビ局『アルアラビア』でレポーターとして活動を開始した彼は、戦争中もイラクをほとんど離れることはなかったという。テレビレポーターとしてはまだ一年生、弱冠26歳だった。
イスラエル軍の検問所からイドゥナへは車の通過は許可できないというので、そこから一人で歩き始めると、「乗ってください、マーゼンの葬儀に行くんですよね」と通り掛かりのパレスチナ人が私を拾ってくれた。人口2万人程度のこの町では、地元出身のテレビレポーターに何が起こったかを誰もが知っているようだ。
町の集会場に到着すると、マーゼンの父親、兄弟、いとこ、友人から次々と挨拶され、砂糖を入れないアラブコーヒーが振舞われた。このコーヒーは「死の苦さ」象徴するものだという。
「ラマダン(断食月)中か、年末にはそっちに帰るよ」。4日前にいとこのアハマドに入った電話がマーゼンの最後の連絡となった。「彼は占領に苦しむパレスチナ人として、武器ではなくマイクロフォンで占領と戦ったシャヒード(殉教者)です」。マーゼンと共にバグダッドで学んだ学友でもあるアハマドは誇らしげにそう続けた。
マーゼンがイラクで死んだことは世界中で報道されたようだが、葬儀はそれほどのニュースバリュー(ニュースとしての価値)が無いのだろう。アラブ系のメディアが少しいたくらいで、外国人は私だけのようだ。しかしそんなことに関係なく、マーゼンの家の周りでは着々と彼の亡骸を迎え入れる準備がなされている。パレスチナの国旗やポスターで町が飾られ、トラックを改造した街宣車が大音量で走り回る。炎天下のパレスチナで人々は朝10時前からマーゼンを待っているのだ。しかしマーゼンは来ない。イラクは遠いし、途中、イスラエル軍の検問もいくつもあるから、予定通りに行かないのは仕方ないのかもしれない。
午後4時過ぎにやっとマーゼンは到着した。街宣車に先導され、大音響のスピーチと共にマーゼンの救急車が彼の自宅前に到着すると、1500人以上と報道された群集がその救急車を取り囲んだ。彼の遺体は皆に神輿のように担ぎ上げられ、自宅の中に運び込まれた。
自宅の庭では怒りと悲しみに満ちた人々が泣き叫び、地元のテレビカメラにアラビア語で何かを訴えかける。謝罪のないアメリカ軍(*注)に苛立っているのだろうか?自宅内では最後のお別れをしていた中年男性が卒倒した。少女がこちらを睨みつけるようにして泣いている。
マーゼンは家族とのお別れをした後、モスク(イスラム寺院)に運ばれ、その後埋葬された。群衆が散っていく中、「彼の顔はきれいだったね」とパレスチナ人ジャーナリストに話しかけると、「あれはアッラーからの贈り物だったんでしょう」と彼は微笑んだ。不思議とその微笑が不謹慎には感じられなかった。
紛争地報道で殉職したマーゼン・アルトメイジの冥福を祈りたい。
(*注).アメリカ軍はその後、正式に事故の謝罪をした。
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